講師紹介詳細
仁多 理恵 Rie Jinda
ヴァイオリン・ヴィオラ奏者、講師。
ヴァイオリン/ヴィオラ指導歴25年以上です。
幼少期〜小学生
ヴァイオリンを始めたきっかけ、それは4歳の時住んでいた団地の集会所に、音楽教室スズキ・メソードが開講されていたからでした。同じ歳のお友達が通っており、習いたいと言ったようです。
声楽の道を目指していた母とクラシックが好きだった父は、我が子にヴァイオリンの代わりに、とりあえずウクレレを買ったと後で聞きました。
また、ようやくヴァイオリンがきた日、弓で擦っても音が出なくて不良品かと思ったとか。松脂を塗ることを知らなかったのです。
そんな両親ですが、日曜日の朝8時にはラジオでクラシック音楽を流すという環境で私は育ちました。
先生はとても綺麗で優しかったのですが、母が厳しく、よくソファの後ろに隠れて泣いていました。
ヴァイオリンには涙の跡がよくありました。
スズキ・メソードはとても大きな会なので同じ歳の子がたくさんいたこと、大きな発表会があったこ
と、合宿が楽しかったこともあって辞めずにいられました。
中学時代
中学校では担任の先生が顧問だったので剣道部へ入部。
部活に明け暮れていましたが、それでも隣の市まで、毎週レッスンには行っていました。
共働きの両親が送迎をしてくれたこと、そして何より3年間で1曲しかできなかった私を辛抱強くみてくださった井出久美子先生に頭が下がります。
部活を引退する頃、母が近所にNHK交響楽団の先生がいるらしいと聞いて、なんとか連絡を取
り、まだ若かった清水謙二先生に教えていただけることになりました。
この出会いが進路を決めることになるのです。
高校時代
それなのに、私は高校でも当然のように剣道部に入り、鼻息荒く過ごしておりました。
中学3年で出会った恩師には、私が一番年上の生徒だったようで、私に音楽大学を勧めてくださ
いました。アンサンブルなどして、とても楽しかったからと。
そしてご自分の先生、岩崎洋三先生にお話をつけてくださり、こっそり部活も続けながら音楽大学を目指すことになりました。
そんな高校1年の時、地元のコンクールに挑戦することに。
部活でヘロヘロになりながらも練習をしていたある夜、母が倒れたのでした。
くも膜下でした。
母の入院中に予選があり、それはなんとか通過しましたが、数日後に帰らぬ人となりました。
あまり練習せずに臨んだ本選はひどいものでした。というか、練習しなかった記憶しかありません。
母が倒れた時に弾いていた曲を、気にせず弾けるようになったのは、大学を卒業してずいぶん経ってからです。
その後も変わらず部活を続けて楽しく高校生活を謳歌していました。部活の仲間は今も交流があ
り、コンサートのたびにきてくれます。ありがたいことです。
ただ、その頃友達は私は武道大学に行くものと思っていましたが。
入試・大学時代
先生方のおかげで武蔵野音楽大学へ入学。大学ではL.Graeler先生、R.Haux先生に、音符の奥にあるものを教えていただきました。
大学へは片道3時間半かけて通っていました。よく通ったものだと、今は思います。時間がないと
きの方がなんとかして練習するものです。
また、室内楽の授業でヴィオラ奏者が足りないため、学校の楽器を借りて担当することになり、ヴィオラという楽器を弾くきっかけとなりました。
その室内楽の授業ではU.Koch先生の熱いご指導を仰ぐことができ、室内楽の楽しさを知りました。
こうして先生、友人にも恵まれ、通学に時間がかかること以外は楽しく4年間を過ごしたのでした。
大学卒業後
卒業する頃、自分はなぜヴァイオリンを弾いているのだろうと、思い始めました。寝食を忘れて練
習する、ということもなかったのです。
ぐらついている私にある方が「続けて来られたのだからヴァイオリンが好きなんだ、ということでも良いのではありませんか?」と言ってくださり、気持ちを立て直すことができました。
卒業後、先生方や仲間のおかげで室内楽やオーケストラでの演奏、弦楽部のトレーナーや音楽教室の講師などをしながらかれこれ30年、世の中と繋がらせていただいています。
ヴァイオリンはピアニストをはじめ、室内楽、オーケストラなど、誰かと一緒に演奏することの方が
多い楽器です。
一つの曲を演奏するためには、同じ方向をむくために話し合ったりする必要があります。そこで社会性が養われていきます。
また、小さな子には小さな楽器があり、フルサイズになってもどこへでも持ち歩くことができます。
あるヴァイオリンの側面に「わたしは森にいるときには木陰で人を癒し、ヴァイオリンになってからは音で人を癒す」とギリシャ語の文字が刻まれているそうです。
そんな楽器を人生のお友達にしませんか?